昭和四拾八年四月二日 御理解題七十一節


 「ここへは信心の稽古をしに來るのである。よく稽古をして帰れ。夜、夜中どう云う事が無いとも限らぬ。おかげは我家でうけよ。子供があるものや日傭取りは出て來る訳にはいかぬ。病人があったりすれば捨てておいて参って來ることは出来ぬ。壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけ。」


 教祖様の御教え、特にこの御理解は非常に矛盾が多いと云われて居ります。けれども矛盾と云えば矛盾ですけれども、結局その人の頂いておる信心、または信心の程度程度に応じて御理解下さってあるのがこの御理解ですから、矛盾の有る方が実は本当だと思うですね。小学校に行きよる者にも大学校に行きよる者にも同じことを仰っておられる筈はありません。
 問題は小学生は小学生なりに助からなければならん。大学生は大学生なりに助からなければならん。ですから、小学生に が助かる様に説いておられる。
 ここの七十一節は非常に難しく、又は非常に容易く説いてある御理解だと思います。
 例えば、一番最後の壮健な時ここへよく参って信心の稽古をしておけと仰ること等は、これは本当云うたら、信心の味わいと云うか、お参りもさせて貰わなければおられない程しの信心者に対するそういう信心を願ってのお言葉だと思うです。
 壮健な時と云う、自分の暇な時参れと云う感じですけれども、実を云うたら私共そんなに病気したり困ったりしておる時がそんなにある筈はありません。もう云うなら平穏無事で有難い有難いで御礼参りが出来る。御礼参りに依って信心の稽古をさせて頂く。大体これが一番最高なんです。
 何か困ったことが起こって來ると、さあ朝参りでもしようかと云う様な事になって來る。本当におかげを頂いて有難い、勿体ない、又は 信心が分からせて頂くその喜びがです、その喜びが御礼参りと云うことになり、しかもその豊かな御礼参りの中から信心の稽古をさせて頂くと云う私は最高の事だと思うのです。
 只、ここのところを頂き違えると、壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけと仰っておられれる。まあ暇な時にゆっくりある時に参って来いと云う様な風に、ここはそういう風に頂いてはならないと思う。
 それから次には日傭取りやらは、出て來る訳にはいかん。うちに病人があったりすれば捨てておいて参って來ることは出来ん。と云った様なところなんかも実を云うと、例えば本当はもう本当にその日暮しの難儀な生活をしておる、又病人があって難儀致しておりますと、だからそういう時こそ今度は本当の力を受ける時だと。
 例えばままよと云う心になれ、ままよとは死んでもままよのことぞと、これは十二分の徳を受けようと思えばとこう仰っておられる。
 ですから、病人がよしあろうがです、もうそれこそ、その日その日の暮しであろうがです。
 先日も本当にお参りさせて頂きたいと思うけれども、お初穂がない。その事を一生懸命お願いさせて頂きよりましたら、お供えさせて頂きたいと思いよっただけの金額のお繰合わせを頂いたからお参りをして来たと云う人がありました。
 それはここに参って來る時に庭の木の葉一枚でも散葉一枚でも真心さえあればいいと、真心でお供えすればそれでおかげになるお道なんです。またそれでいいと教えておられる。
 だからそれかと云うと、そんならそういう方達がです、やはりお参りさせて頂くからには、そこにお供えの捻出、お初穂の捻出、時間の捻出をさせて貰わなければ、これは一心の思いですからやはりその方がおかげ頂く。
 ですから、この辺の頂き違いと云うことが、もう金光様はお供えの事は言いなさらんし、又お供えせんでももうお賽銭だけででもいいと、例えば言われた。お供えとおかげが交換じゃない、引き換えじゃないと言われておるからと云うて、例えばお供えをせんで参って來る。それでもおかげは受けられる。けれどもそう云う人がどうかしてと云うて、お供えを捻出してお参りして來るとそれはもうおかげを頂く。いやそういう時に、云うならば力を受ける。
 もう日傭取りで食べるのがいっぱいなんだからと云うのがです、そんなら自分が食べるのを減らしてでもお参りをして來ると、そういうのが徳を受ける。
 だから教祖様はおかげを受けさせると云うことと、徳を積ませたいと云う御理解がその様に違ってくる。そう云うところを教祖の仰っておられるところには矛盾があると云う様に、いわゆる矛盾であると云う風にして頂かないことではもういよいよつまらん。矛盾があるのが当り前とこの七十一節から特にそういうものを感じます。
 今日私はここんところのそう云う七十一節の解説と云うことではなくて、特に日傭取りやら病人やらと云う言葉を使って居られます。云うならば難儀な時と云う時に、例えば参って来んでも良いと云う様な風にあるけれども、私はそこんところを参って來ることはもう、おかげではなくて力になることだと思う。
 例えば病人がおってもです、神様におすがりして來る。神様にもう病人の事はお任せして來る。そして一心も神様に向けて來る。これはもう力になる。もうとてもとても日傭取りどもしよって、お参りが出来る筈はないと云う人達がです、どうかしてと云う時間を捻出させて貰うたり、それこそ自分の食べるものは削ってでもお供えの準備をさせて貰うても参って來る。これはもうおかげを受ける世界ではなくて、徳を受ける世界、力を受ける世界だと思う。
 私は今日、池と云う字のさんずいを小さく小さく頂いて、横の也と云う字を大きく頂いた。池と。
 どう云う事だろうかと思うたら、今日はこの七十一節のその日傭取りやら病人があったりすればと云う、そこんところを頂きますから、それからヒントを得たのですけれども、同時に頂いたのは、真っ黒い頑丈な、黒塗の昔の猫足と云いますかねえ、あのお膳がありましょうが、それのガッチリしたその、アイタこれは精進もののお料理だろうかと私は思うた。それが十脚分位ずらっとその中にいっぱいご馳走がもう盛り上がる様にお膳に準備が出来て居る。
 黒塗ばっかりの器やら漆ですからね、黒塗のお膳ですから、アイタこれは精進ものかなと思うておったところが、その中に盛ってあるのはお刺身とか、お魚とかいっぱい盛ってある。それもどう云う様なことか分からなかったけれども、それが十脚分ぐらい。
 最近私がここで言っております難儀はおかげへの招待状だと云う風に申します。だから黒い器とか、黒いガッチリとしたお膳と云った様なのは今、一生懸命の修行をなさっておられる方達だと感じました。ははあ、これは合楽の方達の中に、ここんところを頂抜いたらおかげは間近と云う人達がいくらもあるなと云う風に感じた。ガッチリとした黒い膳部と云うものは、これは一生懸命の修行のところだと。
 だからそれは、おかげへのと云う事は、勿論おかげですけれども、お徳を受けるチャンスだと云う風に本気でスッキリ頂いてですねえ、おかげを頂いたら私は同時に、このさんずい辺が小さいそして也と云う字が大きいと云うことは、もう例えば、難儀をしておると云うことはいわば、お恵が少ないと云うことでしょう。シが小さいと云うことなんです。けれども、也と云う字がこんなに大きいと云うことは、もう也と云う字は、もうこれに極まったと云うことなんです。何百何拾何円也、もうこれに極まったと云う事なんですよ。
 だから私共信心させて頂く者の頂方と云うものがです、そこに難儀を感じた時には、これが宝だ、これがおかげの元だ、これが本当のおかげの座への招待状だと云う様な頂方が、すぐ直感的にです、感じられると云うか、例えば「おかげばい」と言えれる事なんです。その事がおかげと本当に言えれると云うことが、このシが小さくて也と云うのが大きいのはその事だと思うですね。
 だから問題はその頂き方なんです。その頂方がです、私は本当にそう頂きなさいと云うてもね、苦しいと言うとるのはやっぱ苦しいのですけれども、それが段々その一つの思い込みが出来て、頂かせて貰うと、それを本当に合掌して受けれれる心の状態が出来て來る。そう云う例えば、稽古をここへは信心の稽古をしに來ると云うのは、そういう稽古を本気でしなければいけんと云う事だと思うです。
 今日、私は七十一節と云うこの全体的なこれに対する理解ではなくて、その事を前半に申しました。例えば矛盾が有るとこう云うけれども、それは矛盾がある筈だと、病人やら日傭取りやらと云う様な場合、病人を放って來る様な訳にはいかんし、毎日働くこと、食べることに追われておる人達はそう迄出来ない。
 けれども、壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけと。楽な時、云うなら平穏無事の時に、いよいよ稽古をしておけと。だからそういう例えば、稽古をです、ここへは信心の稽古をしに來る。
 どういうところに焦点を置くかと云うと、例えば難儀な時に直面した時であっても、その難儀はもう別のものとしてお参りが出来る様になる。参って来んでもよいと云うところを参って來ると云う信心は、もう一つの又の御理解から引用させて貰ってです、ままよと云う心になる。ままよと云う心になって信心してみよと云うこと。それは十二分のおかげと云うこと。十二分のおかげと云うことは、お徳を受ける世界。力を受ける世界と云う風に今日は皆さんに聞いて頂きました。同時に私は今日頂いた黒塗のガッチリしたお膳部が、十人余り出来ておると云うことは、ここを十人は合楽で本当に難儀をしておる人達がですよ、そこんところに気付かせて頂いて、それをおかげへの招待状として受けて行く時に、もうお膳部の用意は出来ておると云う感じがします。
 池と云う字を、シを小さく書いて也と云う字を大きく頂くと云うことは、今お恵はいわば、受けてはいけない様な感じ。受けてはおるけれども、やはり難儀をしておる人達。お恵は小さいと云う人達。 けれども、信心は信心に依って徳を受けると云うのは、ここを大事にすることだと、もう極まったと。それが分かったと云うことが、池と云う、もう沢山のお恵の水をたたえられる受け物が、そう云う時に出来るんだと。
 してみると、日傭取りの人だって、うちに病人があったりしてです、その日傭取りの人がもう身を削っても、お初穂の捻出をさせて貰うたり、時間を作ったり、病人があってもそれは心配になるけれども、その心配は神様にお任せにして、そしてままよと云う心でお参りをして來ると云う程しの修行をさせて頂くならば、そういう例えば、おかげではなくて、もうそれはお徳を受ける力を受ける信心修行だと。
 だからこれを、そのままそう云う感じで受けてはならない。もう神様がうちにお金が無いこと知っちゃるから、もう参らんでも良いと云う信心もあるけれども、それを乗り越えてお参りをさせて頂く信心の修行をさせて貰うと云うことになると、もうそこは徳の世界だと。私は黒塗の膳部の前に座れれる程しのおかげと云うのは、そういうところを乗り越えた人達の信心だと今日は聞いて頂きましたですね。 どうぞ。